![]() |
高野山真言宗・昇龍寺
奇跡の法力 河原龍靖住職が開眼入魂!

これが本物の開運力 一寸不動明王 新登場!
ビジネスの成功(金運上昇・大金獲得)、勝負必勝、トラブル解決に強い力を発揮します!
驚くべき霊験は下に
高野山真言宗・昇龍寺 河原龍靖住職
細密工芸の粋!
制作は細密工芸の泰斗・紀藤英智仏師
純銀(SV925)製 24金鍍金
高さ:35mm 像高:23mm 重量:約25g
![]()
こんな僧侶が現代にいた!
「お陰様で、脳溢血で倒れた私が職場復帰できました」「手術後の痛みがほどんどありません」「子供が言葉を話せるようになりました」等々、河原龍靖住職の寺には、全国から寄せられた膨大なお礼状の束があります。
奇跡を語る文面からは、感謝の気持ちが痛いほど伝わってきます。特に子供の障害が劇的に回復したことを報告する母親の手紙は、読む者の心を打ちます。
| 河原住職愛用の密教法具 |
河原住職は凄まじい法力で知られる、加持祈祷の専門家です。半世紀にも及ぶ厳しい修行で得た法力で人を救う、現代では数少ない本物の祈祷僧であり、これまで3000人以上を癒してきました。
得意とするのは、症状が固定する前の脳障害の治癒。突然の脳梗塞で意識不明となり失語症になった60代の男性が、3ヶ月の祈祷で回復した事例や、歩行困難だった二歳半の娘が歩けるようになった感動の実話は、著書『心と体を癒す遠隔ヒーリング』に紹介されています。
また『加持祈祷の本』(学研)には、難病で発作に苦しむ子を救った実例が記されています。
住持する高野山真言宗・昇龍寺は、今の時代珍しい祈祷専門寺院。ひたすら加持祈祷に没頭する毎日です。その姿は、一生涯修行に明け暮れた往時の山林修行者を彷彿させます。
真言密教の奇跡
![]() |
| 高野山金剛峯寺(画像:663ハイランド) |
河原住職は、高野山の三井英光大僧正から伝授された「病者加持法」を日々修法しています。今から1200年前、弘法大師空海が宮中で修法した由緒ある法であり、脈々と受け継がれてきたものです。
祈祷は火を使わず、心の中の智恵の炎で邪気を焼き尽くす「内護摩」。実際に護摩を焚いて修法する「外護摩」のように一度に何千人とできない不便さはありますが、その代わりに一人ひとりに意識を集中するので、結果が早く出ます。
依頼者に意識を集中すると、河原住職に感応という現象がおきます。依頼者の悪い部分が体に反映されるのです。側頭部にお湯を入れたような感じがしたり、線香を肌につけたような痛さを感じたりします。
祈祷の依頼は1ヶ月単位で受け、来る日も来る日も修法します。依頼者の必死の思いを背に、その負担は並大抵のものではありません。
そんな河原住職の過酷な日々を支えるのは、一人でも多くの人を救い、密教の素晴らしさを伝えたいという熱情。伝法阿闍梨となって50年が過ぎようとしている今も、その情熱は一向に衰えるところがありません。そして円熟の域に達した現在でも、水行法を行なっています。その激烈なる法力は、いまなお進化し続けているのです。
河原住職のような真言行者が現代にいるという事実こそが、最大の奇跡かも知れません。
心を込めて開眼入魂
弊社では河原住職に依頼し、一寸不動明王を開眼入魂していただきました。
平素は慈悲深い笑顔をたやさない河原住職ですが、壇に座ると巨大な存在感を感じさせます。ひとたび修法に入るや、火の出るような真剣さに圧倒される思いです。
開眼入魂は理趣経で行なわれました。供養でなく祈祷であるとのことで、早いペースで唱えていきます。時間をかけて丁寧に開眼入魂していただきました。
実は河原住職自身、不動明王とは深い縁で結ばれています。不思議な夢に導かれて滝行をはじめた十代の頃、通いつめたのは東京世田谷の等々力不動で、唱えたのは不動経と不動明王真言でした。若い頃はとにかく必死で、夜中に滝に行き、朝まで滝行する無茶を繰り返しました。不動明王の力がなければ、荒行で命を落としていた可能性すらあります。
そんな青年僧時代から気の遠くなるような修行を積み、一山の住職として大勢の人に慕われる今も、本堂脇侍の不動明王の前で懸命に修法する日々。河原住職の人生は修行そのものです。
一寸不動明王には、授かる方が幸せをつかみ、災難を逃れ、密教の力を実感していただきたいという、河原住職の熱い願いが込められています。
大金運をもたらす!
![]() |
| 不動明王を守護仏とした武田信玄 |
一寸不動明王は、あなた様のビジネスの成功(金運上昇・大金獲得)、勝負必勝、トラブル解決に強い力を発揮します。激しい気迫で一切の魔を退散させ、邪悪なものを断ち切り、すべてに打ち勝つ力をもたらします。悪事災難を取り除き、心を寄せる人を力強く守る、守護者のような存在です。後醍醐天皇、安倍晴明、二宮尊徳、初代市川團十郎など多くの歴史的人物が不動明王に心を寄せ、大いなる御利益を授かりました。
![]() |
| 信玄生不動が安置される明王殿 |
戦国時代最強といわれた武田信玄もまた、自らの頭髪を焼いて塗りこめた不動明王像を作らせ、出陣前ひとり加護を祈りました。なにが起こるか分からない戦国の世、リーダーの孤独をかみしめながら、不動明王にだけは心を許すことができたのかも知れません。
この「信玄生不動」「武田不動尊」と呼ばれる不動明王は、1582年(天正10年)に恵林寺が焼けたときも、明治時代の大火のときも奇跡的に焼失を免れ、霊験あらたかとして篤い信仰を集めています。
| 自信は成功の源 |
心を3倍強くする小さな守護仏
信玄に限らず多くの戦国武将は神仏を尊び、一寸不動明王のような守護仏を懐に戦いの場に赴きました。恐怖や葛藤に圧倒されそうになったとき、懐の小さな仏像が己に打ち勝つ大きな役割を果たしたことは間違いありません。
一寸不動明王のような守護仏は、心の支えとなり、安心をもたらし、自信をつけ、心を奮い立たせる力を持ちます。勝運強化、災難消除の実際面ばかりでなく、心の内面にも力を発揮するからこそ、命懸けの戦いに臨む戦国武将に熱く支持されたのです。
小さなカミナリ親父
![]() |
| わずか数ミリの空間に |
一寸不動明王の印象を一言でいうなら、「カミナリ親父」。
昔の日本にいた、無口でおっかなく、曲がったことが大嫌いで、口より先に手が出てしまう不器用な親父。それでいて心の奥には深い愛情をたたえ、責任感が強く、どんなことがあっても家族を守る力強い親父。一寸不動明王を手にすると、そんなカミナリ親父に叱咤激励されている気がします。
お顔はルーペで見ないと分からないほど小さいですが、カッと見開いた大きな目、強い決意を秘めて閉じられた口からは、激しい気持ちが伝わってきます。真っ直ぐな姿勢、岩座にドッシリ座った磐石なお姿は、「なにがあっても負けるな!」と身をもって諭しているような気がしてきます。
掌に隠れる小さな一寸不動明王が、しばらく拝見していると巨大な存在のように感じられるのは不思議なものです。
![]() |
| 紀藤師工房近くの桂離宮(宮内庁管理) |
京仏師の力作・最高レベルの作品
作者の紀藤英智師は京都に生まれ、桂に工房を構える仏師・造形作家です。細密な仏像を得意とし、シャープペンシルの芯に仏像を刻む驚異的な技術がテレビ番組で紹介されたりするなど、細密工芸の第一人者として知られています。
本作品は紀藤師が、じっくり時間をかけて制作した力作です。不動明王の力強さ、激しさ、威厳、そして内に秘めた深い慈悲が、この小さな空間に見事なまでに表現されています。

材質は純銀(SV925)。それを24金鍍金で美しく仕上げました。
銀の仏像は鋳造に高度な技術を要するので古来希少で、数少ない作例があるのみです。たいせつな守護仏にふさわしいのは貴金属であると考え、あえて材料にこだわった入念作です。
紀藤師が作り上げ、河原住職が開眼入魂した一寸不動明王は、あなた様だけの心強い守護仏となります。この縁が、人生を切り開く出会いとなります。ぜひこの機会にどうそ。
まつり方は簡単!
一寸不動明王は個人的な守護仏ですので、細かい決まりにとらわれる必要はありません。たいせつなのは形でなく心です。
清浄なところ安置し、祈るだけで、あなた様を守り心願を成就してくれます。ご注文いただいた方には不動明王真言をお伝えしています。
![]()
不動明王の霊験
![]() |
| 日清戦争 |
九死に一生を得る
1894年(明治27年)の日清戦争のとき、台湾出撃の命が下った陸軍少尉・中谷道太郎氏は河内の瀧谷不動に参拝し、部下に守護札数百枚を持たせて出征しました。
現地で農村を捜索していたとき、中谷氏はいきなり首めがけて横から槍で突かれました。間一髪で避けると、敵兵が次々出てきて斬りあいになり、激戦のなか中谷氏の刀は折れ、死に物狂いの格闘の末かろうじて敵を倒して陣地に戻りました。
一息ついて帽子を脱ぐと槍で切られた跡があり、帽子に挟んであった不動明王の守護札が切れているのを発見しました。中谷氏は、不動明王が自分を救ってくれたのだと悟りました。
中谷氏が率いた部隊は、他の部隊が風土病で大勢の死者を出すなか奇跡的に一人も病気にかからず、大いに活躍し明治29年5月10日無事凱旋しました。帰国後直ちに不動明王にお礼参りに行き、折れた刀を奉納したことが記録に残されています。
日本を守った空海自刻の不動明王
史書の伝えるところによれば806年(大同元年)、弘法大師空海が唐から帰国するとき船上で嵐に遭遇し、あわや難破かというとき師の恵果和尚から授けられた霊木で不動明王を彫り上げ一心不乱に祈祷しました。
すると不動明王が船の先に立ち、右手に持った三鈷剣で押し寄せる波を切り裂いて危機を救ったといいます。このときの「波切不動明王」は現在重要文化財に指定され、高野山南院の本尊として篤い信仰を集めています。一年に一度、6月28日だけご開帳します。
![]() |
| 高雄山神護寺 |
空海が帰国してのすぐの810年(大同5年)、薬子の変が勃発し国内は非常に不安定な状態になります。空海は嵯峨天皇の密勅を受け高雄山神護寺(当時は高雄山寺)で不動明王を彫り上げ、その前で護摩祈祷を行ったところ、乱はすぐに平定されました。
それから百数十年後、平将門の乱が起きます。朱雀天皇の密勅を受けた寛朝大僧正(916〜998)は高雄山神護寺の不動明王(上記)を奉じて東国に下向し、将門調伏の護摩祈祷を行いました。21日間懸命に祈り続けた満願の日、940年(天慶3年)2月14日、乱は無事平定されたのです。
大任を終えた寛朝大僧正が不動明王とともに帰京しようとすると、不思議なことに像は微動だに動きません。やがて「長くこの地に留まって無辺の衆生を利益せん」という霊告が響きました。この話を聞かれた朱雀天皇は深く感動され、国司に命じて現在の成田山新勝寺を建てさせました。爾来一千七十年、一日たりとも護摩供が絶えたことはありません。

鎌倉時代になってわが国は元寇という未曽有の国難に直面しました。高野山からは空海自刻の波切不動明王(上記)が持ち出され、博多で五壇護摩と呼ばれる大規模な祈祷が行われました。
そのとき、不動明王が元の軍勢目がけて空を走っていく姿が各地で目撃されたのです。そして1281年(弘安4年)7月、ついに14万の元軍が壊滅しわが国は危機を脱しました。日本側兵力はたったの4万にすぎませんでした。
不動明王は日本を救ったのです。
後醍醐天皇を守った不動明王
空海の時代から約500年後、建武の中興(1334年)を成し遂げられた後醍醐天皇。その精神はさらに500年後の明治維新に引き継がれ、わが国を植民地化の危機から救いました。
幼少より英明であられた後醍醐天皇は御自ら護摩祈祷を行うほど密教を深く学ばれ、不動明王と深い縁で結ばれていました。改革のため危険を顧みることなく、生涯何度も危機を切り抜けられた帝は不動明王を守り本尊とされていたのです。南朝の終わりころには戦火で失われてはいけないと、胸を引き裂かれる思いでこの不動明王を吉野(右写真)から高野山に移されました。
現在後醍醐天皇を守った「赤不動」は重要文化財指定を受け、高野山明王院の本尊として篤い信仰を集めています。日本三不動の一つであり、のちの時代に徳川家康も深く帰依しました。
お薦めの本: 『不動信仰事典』 宮坂宥勝(名古屋大学名誉教授・総本山智積院化主第68世)編
![]()
紀藤英智作(作者銘入り)
純銀(SV925)製 24金鍍金 高さ:35mm 像高:23mm 重量:約25g
数が限られていますので、早めにお申込ください。
![]()
お支払いは便利な代金引換で!(手数料弊社負担)
配送等のご案内

ご注文、お問い合わせはお気軽に 03−3320−7722 までお電話ください
![]()
他の作品
不動明王